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【『風太郎不戦日記』大反響御礼スペシャル企画】 …で、山田風太郎ってどんな人?

21/07/20
写真提供=山田風太郎記念館
『魔界転生』などの「忍法帖」シリーズや『警視庁草紙』などの作品で知られる昭和・平成の異端な大作家、山田風太郎。彼が2001年にこの世を去って18年。令和となった今、モーニングでは『戦中派不戦日記』のコミカライズが始まりました。
だがなぜ今、山田風太郎なのか。そして、そもそも山田風太郎って、どんな人物だったのか。この質問を、編集部は彼と縁のあるお三方、そしてご家族にぶつけてみました。このページから、山田風太郎の人となり、そして『風太郎不戦日記』で描かれる彼の思いを感じ取っていただければと思います。
※『風太郎不戦日記』完結巻発売を記念して、「モーニング」2020年2・3合併号に掲載された巻頭カラー記事をウェブで再録しました。
雑誌掲載時ページデザイン=名和田耕平デザイン事務所
公式サイト掲載時デザイン=モーニング編集部
取材・文=モーニング編集部
関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』著者
——『戦中派不戦日記』刊行から20年と少し。関川氏が敢行した山田風太郎へのインタビューが、のちの名著『戦中派天才老人・山田風太郎』となる。
関川 雑誌『鳩よ』からの「なんでもいいので」という依頼を受け、山田風太郎インタビューを始めることに。山田先生も「よくわからないけどいいよ」と引き受けてくださった。僕は強烈なファンではないものの、山田作品のよい読者であり非常に作品を信頼していました。何を書いても必ず感じられるユーモアが大好きでしたので。そして山田邸を訪ねることに。
最初のうちは聞いた話を起こせばいい、と考えていたら、山田先生はいつも同じ話しかしない。これでは毎月毎月通っても意味がない。いつも「あんた誰だっけ」と言われる始末。それがわざとなのか本当に忘れているのか、わからないんですね。まだ耄碌もうろくしていないはずなのに、きっと何かを覚えない努力をしているんです。
それなら山田先生からはインタビューのたびに、一つずつキーワードを探そうと。それと、山田先生が話したことと、さらに今まで書いたことを組み合わせて再構成しようと。だから極端な話、このインタビューに書いていることは、全部根拠のあるうそ。山田さんが「君はパスティーシュがうまいね」とおっしゃったことからわかるのですが、山田先生はそもそもインタビューに答える気がない。でも、それは作家の不機嫌ではないし、傲岸不遜ごうがんふそんとは違います。興味がないだけですね。だから、山田先生と距離が縮まったという感覚は最後までありませんでした。遠いわけでもなく、近いわけでもない。このへんに漂っている感じです(笑)。それが彼の魅力だとよくわかりました。
読者として、山田先生の才能とユーモアにかれていた私が、どうすればそれを山田先生の言葉を借りて表現できるのかと考えて書いた本が『戦中派天才老人』です。この本はフィクション。奥さんもこれを読んで明るく笑ってくれたようです。
閑静な住宅街にある風太郎邸。今でも、デスクまわりは生前のまま。ここから数多くの名作が生まれた。
『戦中派不戦日記』は日本国のカルテ
関川 『戦中派~』は、あとで読み返すという想定がないままに、ものすごく詳しい日記を書かざるを得ないという山田先生の気持ちがすべて。なんでも見て記録しなければ気が済まない。小説家の原型です。普通それは、ただの物知りか嫌味な記憶魔になるけれど、名作家たちはそこを歩まない。必ず一度、完全に忘れるんですよ。山田先生は昭和20年を一度忘れることができたんです。そして時が流れて読み返してみて、これを四半世紀後に出すことにどんな価値があるのかを考えたはず。それが大きいと思います。つまり小説家としてだけでなく、歴史家としての目を持っていたんです。
彼の記述によると、昭和40年頃からふと思い立って戦争の記録を読み始めた、と。なんと1100冊も。それらの中で戦後に書かれたものは、筆者が自分の責任を人に転嫁していたり、ごまかしているところがある、と。その点、山田先生の日記は戦後ではなく戦時中に書いて、なおかつそれを25年放っておいたもの。ここにものすごく大きな意味がある。1100冊の大半には、実は戦時中の日常生活が書かれてない。だとしたら、自分の日記には歴史的な意味や価値があるのでは、と。歴史を語る時に、モノの値段や行列の長さについての記述がとても大切なんですよ。さらに、『戦中派不戦日記』の中では、山田青年が米軍をののしるところがありますが、あれだけ才能のある大人の作家が、当時しっかりとそう思っていたことは、歴史に残すべきだと。それが戦争なんです。そういったことを包み隠さず描いたこの日記は、いわば“日本国のカルテ”です。

…で、山田風太郎ってどんな人?

平たく言えば、とぼけたじいさん(関川夏央)
月村了衛第10回(2019年度)山田風太郎賞受賞者
風太郎との出会いは突然に
月村 大学に入って1ヵ月。『幻想文学』という季刊誌で山田風太郎インタビューをするので同行してほしいと、編集人・ひがし雅夫まさおさんにお誘いをいただきました。大ファンの私はうれしくて飛び上がりました。
当日、約束の時間にお宅に伺いましたが、先生はまだお休みでした。悠然と応接室に入ってこられた先生は寝ぐせ頭。それでも、私のような学生の質問に誠実にお答えいただきました。
20年ほど前、“山田風太郎・再評価”と言われ、私は違和感を覚えました。決して“再”ではない。常に最前線で作品を発表している先生に失礼ではないか、と。それよりずっと以前のインタビューだったからか、先生には無常観や虚無感をそこはかとなく感じました。中でも印象的なのは「いろいろ書いてきたけど、結局後世に残るのは『忍法帖』なんだろうね」と少し悲しげに話していらしたこと。そして「『忍法帖』で読む価値のあるものは4~5本しかない」とも。私は「『外道忍法帖』や『飛騨忍法帖』はなぜ文庫にしてくださらないんでしょうか?」と尋ねたところ、「あれは出来が悪いから。一生出したくない」。しかし「そんなこと言わないでくださいよ!」と食い下がったせいか、『外道』も『飛騨』ものちに文庫化されました。お目にかかったのはこの一度きり。恥ずかしい思い出です。
——“風太郎愛”においては、右に出るものはいないと言われる月村氏。その愛が通じたのか、「豊田商事事件」をモチーフにした『だます衆生』で、2019年度の山田風太郎賞に輝いた。
月村 『東京輪舞』『悪の五輪』そして『欺す衆生』、山田風太郎が明治もので確立した“実際の人物とフィクションを織り交ぜて描く”スタイルを踏襲させてもらっています。ファンとして体の中に染みついていましたので。さまざまな作家がこの手法を使ってはいますが、その大本は山田風太郎が培ってきたものであることを知らしめたい。とはいえ、私自身は山田風太郎のフォロワーと自称したことはありません。山田風太郎のフォロワーは存在し得ないと思っていますから。先生は唯一無二の天才であり、凡人が真似できるものではないのです。
フォーマットや手法というのは、文学的手法としてどの作家も使用できますが、それを開発した人が偉い。私のような後に続く作家にとっては、その手法を使って、どれだけ独自性を発揮できるかがポイントですね。
小説を書いていて、主人公の人生を描く要所要所で出てくる“呼吸”に、山田先生の作品の影響が出ているかもしれません。執筆中にはあまり意識していないんですが、あの世から山田先生が力を貸してくれている、と思うことがあります。

…で、山田風太郎ってどんな人?

唯一無二の天才としか言いようがない(月村了衛)
せがわまさき漫画『バジリスク~甲賀忍法帖~』作者
風太郎をコミカライズする、ということ
せがわ とにかく“ロジック”で推し進めていく『甲賀忍法帖』を漫画にするために常に意識したことは、そこに現代の読者が共感できるような“感情”や“表情”を補完して呑み込みやすくすること。変なたとえだけど、干物みたいにがっちり固めてある旨味のかたまりを、自分なりの“水の足し方”でほぐしていくような作業だと感じていた。
——『バジリスク』を皮切りに、風太郎作品を次々とコミカライズする中で、せがわ氏なりの“山田風太郎像”が見えてきたと言う。
せがわ 基本的に理詰めの人だと思う。デビュー作が推理小説というところに深くうなずいてしまう。自分が『甲賀忍法帖』を漫画にすることになって、改めて読んだ時に感じたのも、やっぱり風太郎先生はロジカルだということ。物語の構造が理路整然としていて、人間の感情や内面描写が極力省いてある。『忍法帖』シリーズの第1作目ということもあってか、特に推理小説の様式を色濃く残しているように思う。
生と死を平等に見つめて、表があるところには必ず裏があるというシニカルな世界観。それを劇的に表現するのではなく、抗えないものとしてそこに置いておき、その枠の中で対立する二つの勢力を描いた『甲賀忍法帖』。しかし主人公二人は物語の最後の最後で両一族の宿命にそむき、己が慕情のままに動く。歴史的帰結を知る読者はよくできた推理小説の終局にも似た、その数行の描写に心をゆさぶられてしまう。
風太郎作品のほとんどは悲劇的に終わる。滅びに対する哀れみを描かずにはいられない人なのかもしれない。
でも、『戦中派不戦日記』を読むと、若い頃はまた違ったんだろうなというのもわかる。あの中の風太郎青年はとにかく純粋というか、まだ物事の一面しか捉えられない青臭さが愛おしい。不良少年っぽくもあったんだろうけど、肋膜ろくまく炎で兵役に落とされたり、敗戦を経験したりした結果、ああいうシニカルな人になっていったんだな、と。

…で、山田風太郎ってどんな人?

理詰めの人(せがわまさき)

せがわまさき

1997年『千魔物語り』でデビュー。1998年より初の長期連載『鬼斬り十蔵』を連載。2003年から山田風太郎原作『甲賀忍法帖』を漫画化した『バジリスク~甲賀忍法帖~』を連載し、講談社漫画賞一般部門を受賞。その他『Y十M~柳生忍法帖~』、『十~忍法魔界転生~』、短編連作『山風短』など数々の山田風太郎作品を連載し、いずれも人気を博す。

山田啓子・佳織風太郎夫人・ご長女
——東京都多摩市にある山田邸。月村了衛氏が学生時代にインタビューをした場所でもある応接室で、一番身近で風太郎を見ていたお二人に思い出を語っていただいた。
啓子 夫はウイスキーが大好きで、いつもロック。水では割りません。だからちびちびやるんですけど、だいたい3日で1本ですね。おかずがたくさん並んでないとダメだった。量を食べるわけではないんですが、とにかく品数が並んでないとダメな人でした。そんな中で“チーズの肉トロ”が大好きで。
佳織 先日亡くなった和田誠さんにもイラストに描いてもらったくらいです。
和田誠氏のイラストに風太郎がどれだけ“チーズの肉トロ”が好物だったか、見て取れる。
佳織 父は夕方4時半くらいに起きて、大相撲中継を観ながら食べ始める。食べ終わったら、寝る。私が小さい頃は、夜7時くらいから家族が食べ始めましたから、その時間差に母は大変だったと思います。それで家族が寝てから深夜の11時くらいにまた起きて仕事。疲れていなければ、寝る前の明け方3時から4時、近所を散歩していました。
啓子 いつも着物と下駄で。途中、洋服に変えるも、下駄はやめなかった。
佳織 私は育児日記をもらったことがいい思い出ですね。父が亡くなったあと、本(『山田風太郎育児日記』)になったんですけどね。父が生きてたら嫌だというだろうし、私も恥ずかしいので断っていたんですけど……。生まれた時から中学生の頃まで。まさかそういう日記をつけているなんて思わなかったので驚きました。今見ると、面白いですよね。
『戦中派不戦日記』同様、育児日記も一度書いた日記から、育児部分だけを抜粋し、別の日記帳に書き写していた。
啓子 そういう意味では、私たちにとっては、夫は作家というよりは、あくまで家族。本が出ても夫から読まないように言われていましたし。とはいえ、エッセイは好きでした。日記ものは主人といえども、他人様の生活をのぞき込むような気がして、あまり……。
佳織 私も読んでないです。子供には難しくて。エッセイは『あと千回の晩飯』は好きですね。父は孫が生まれた時に、昔話や童話などをプレゼントしてくれましたね。

…で、山田風太郎ってどんな人?

難しくない夫、普通の父(山田啓子・佳織)

以上、人間・山田風太郎が見えてきたでしょうか。
「風太郎をもっと知りたい!」という方には、

山田風太郎記念館がオススメ!

2003年、風太郎生誕の地に開館。生前の風太郎から寄贈を受けた約1500点の資料を収蔵・展示している。
写真提供=山田風太郎記念館

兵庫県養父市関宮605-1  079-663-5522  公式サイト

山田風太郎略歴

1922年

大正11

兵庫県養父郡関宮村(現在の養父市)で、医院を開業していた山田家に生まれる。本名、山田誠也。

1927年

昭和2

誠也の父、死去。

1935年

昭和10

兵庫県立豊岡中学に入学。

1936年

昭和11

誠也の母、死去。

1939年

昭和14

雑誌「映画朝日」に、山田風太郎のペンネームで投稿。翌年、掲載される。

1940年

昭和15

豊岡中学卒業も、高校受験に失敗。

1942年

昭和17

2年間の浪人の末、高校には合格できず、東京の沖電気に就職。その後、召集されるものの、肋膜炎のため入隊とならず。

1944年

昭和19

東京医学専門学校(のちの東京医科大学)に入学。

1945年

昭和20

『風太郎不戦日記』(『戦中派不戦日記』)で描かれる一年を過ごす。

1946年

昭和21

探偵小説誌「宝石」の第1回懸賞募集に応募。『達磨峠の事件』が入選。

1948年

昭和23

初作品集『眼中の悪魔』を刊行。

1950年

昭和25

医者にはならずに専業作家となる。

1953年

昭和28

啓子夫人と結婚。

1954年

昭和29

『妖異金瓶梅』刊行。

1958年

昭和33

『甲賀忍法帖』の連載を開始。

1960年

昭和35

『おんな牢秘抄』『江戸忍法帖』『飛騨忍法帖』刊行。

1961年

昭和36

『くノ一忍法帖』刊行。

1963年

昭和38

『山田風太郎忍法全集』刊行開始。忍法ブームとなる。

1964年

昭和39

『おぼろ忍法帖』(のちに『魔界転生』と改題)連載開始。

1971年

昭和46

幕末ものの発表を始める。

『戦中派不戦日記』刊行。

1973年

昭和48

『警視庁草紙』を連載開始。

『滅失への青春 戦中派虫けら日記』刊行。

1975年

昭和50

『戦中派不戦日記』『滅失への青春』を原作にしたテレビドラマがNHKで放映。

1978年

昭和53

『山田風太郎奇怪小説集』刊行。

1986年

昭和61

『人間臨終図巻』上巻刊行。

1991年

平成3

『柳生十兵衛死す』連載開始。これが最後の小説となる。

2001年

平成13

肺炎のため死去。

勝田文によるコミカライズ『風太郎不戦日記』完結③巻発売開始!

山田誠也、のちに「忍法帖」シリーズでその地位を確立する大作家・山田風太郎は、昭和20年、医学生として東京にいた。

時は太平洋戦争末期、同世代の若者は、みな戦地へ。しかし体調不良で召集を見送られた誠也は、お国のために体を張れない葛藤を抱えながら、日々を送っていた。

そんな彼が当時の世間を、そして日本をどう見ていたか。克明に綴られた日記を、令和の今だからこそ、コミカライズ。

最終3巻で描くのは、敗戦から12月まで。なぜ日本は負けたのか? 日本がこれから進むべき道は? 世の中の変化に戸惑いながら敗戦後の日々を過ごす山田青年を、個性派漫画家・勝田文がユーモアを交えて描きます。

『風太郎不戦日記(3)』を書店で探す|講談社コミックプラス 

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